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2009/11号

黒田家ゆかりの国府山城址と妻鹿のレトロな家並み

(姫路市飾磨区妻鹿)




 今回も戦国時代の稀代の軍師、黒田官兵衛(如水)のゆかりの地を紹介することにして、訪れたのは姫路市の浜手(海岸部)に位置する飾磨区妻鹿(めが)。

 まず向かったのが山陽電鉄妻鹿駅の北、二級河川である市川東岸に迫り出すように姿を見せる標高98メートルの甲山で、山上に天正元年(1573)に官兵衛の父黒田職隆が築いた国府山(こうやま)城の跡が残っている。国府山城は功山城、妻鹿城とも呼ばれるが、天正8年に三木城を陥落させた羽柴秀吉に対し、「姫路こそ中国の毛利攻めの根拠地にふさわしい」と自らの居城・姫路城を譲り渡した官兵衛が家族や家臣とともに移り住んだ城でもある。

 山裾に妻鹿城址の大きな石碑が立ち、その隣にある荒神社の参道脇から城跡に登る道が続いている。6、7年前に初めて登った時は道もそれなりに整備されていたのだが、今はすっかり荒れ果て、登るのに難儀するほど。それでも20分余りかけて登ると、郭(くるわ)の跡らしい平坦な一画に出る。ここからの眺望は素晴らしく、姫路城を初めとする姫路の市街地や海岸線の工場地帯までが一挙に望め、眼下には市川の流れ。地勢的にも戦略的にも申し分のない立地で、職隆がここに城を築いた理由がよく分かる。

 甲山から南東に10分ほど歩いたところに、天正13年(1585)に国府山城で没した職隆の廟所もある。地元では「チクゼンさん」の名で呼び親しまれているが、住宅街の中にあるので探し出すのに少し苦労するかも知れない。  山陽電鉄妻鹿駅の南側には妻鹿の家並みが広がっている。全国的にも有名な「灘のけんか祭り」のお膝元で、明治22年(1889)に飾東郡妻鹿村の役場が置かれたところでもある。

 戦災に遭わなかったせいか、役場跡の建物をはじめ幕末に設置された固寧倉や唐破風の屋根が印象的な古刹なども残り、村の中心地として賑わったかつての面影を今に伝えている。

 特に家と家の間を縫うように続く狭い路地を入っていくと、昭和の面影を色濃くたたえた古い商店や民家が散在し、どこか懐かしい既視感を覚える。昔ながらの店構えの魚屋さんや食料品店など、暮らしの風景までがセピア色に染まり、割烹着姿のお母さんや坊主頭に半パン、ランニング姿の子どもたちが路地の間から現れてきそうな雰囲気。昭和を舞台にした庶民のドラマがそのまま描けそうな町だともいえる。

姫路へ行こう!今月の話題はこれ

「まだまだ見えます 姫路城大天守」



 現在の姫路城大天守は、1609年の完成から400年が経ちます。これまでに幾度となく補修工事等が行われてきました。

 昭和30年代に行われた、大天守を解体し復元する大規模な工事の「昭和の大修理」から45年ぶりの本格修理となる「姫路城大天守保存修理事業」が先月より着手されています。

 今回の工事は、大天守の漆喰壁の塗り直しや屋根瓦の全面ふき直しが中心となります。
 大天守を完全に覆う形で素屋根を掛けて作業を行うことになりますが、平成23年度からおおむね3年間は、素屋根の内部に見学者用のエレベーターと見学スペースを設置。エレベーターで素屋根の7・8階に昇り、大天守上層部の外観や修復の様子を見ていただけるようなります。

 当面は、素屋根を建設するために必要となる資材を大天守のある備前丸まで運び込むための準備期間となっています。

 素屋根は、平成22年4月中旬以降に組み立て始めますので、“来年の花見シーズンが終わる頃までは、姫路城の外観・見学ルートともに原則通常どおりです”。

 まだまだ、美しい大天守をご覧いただくことができます。
 姫路城大天守保存修理事業について詳しくは、下記サイトをご覧ください。

http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2845684/_11311.html

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