【ディープな姫路城】5~10月まとめ
姫路市城郭研究室・工藤茂博さんによる、姫路城にまつわる知れば知るほど面白いお話を月1回で連載。
大好評の特集記事をまとめて読むことができるようになりました!
INDEX
- 1.
5月号「姫路城天守の階段」
姫路城天守の内部をよくみると、ほかの城とは違うことがあります。おそらくほとんどの登閣者はそれに気づくことなく、そのまま姫路城の見学を終えて帰路についていることでしょう。
国内には姫路城のほかに4つの国宝天守が現存しています。いずれの天守でも狭くて急な階段を上って最上階へ、そして再びその階段を下りてきます。つまり、階段は1本しかないのです。ところが姫路城天守では階段が2本あって、地階からの上り階段と最上階から1階への下り階段が別々になっているのです。
《写真1》
《写真2》
実は、階段が2本あるのは、姫路城築城当初からの姿ではありません。写真1は昭和の大修理工事前の3階内部の写真です。左下にわずかに階段口が見えますが、2階へ下りる階段口はありません。写真2は、その同じ3階の組立工事中の写真で、3階の根太の配置を記録するため部屋の西側から撮影しています。写真のほぼ中央に開口しているのが写真1にも小さく写っていた階段口で、階段口はここ1カ所のみです。ちなみに、そのすぐ右手に見えるのが西大柱で、上半分を継ぐ前なので継手仕口の形がはっきりわかります。
2枚の写真から、大修理工事では、階段はもとの通り1本で組み立てたことがわかります。写っている階段口は現在の上り階段ですから、あとから現在の下り階段が増設されたことは間違いなく、それも大修理工事完了後に設置されたことは明らかです。
《写真4》
姫路城昭和の大修理工事が完了したのは昭和39年(1964)3月31日でした。待望の一般公開はその年の6月1日から開始されました。写真4は三の丸本城跡で入城を待つ登閣者の行列で、平成の修理直前と直後に長蛇の列ができたことを彷彿させます。このように、新装なった姫路城には多くの登閣者が訪れたため、連日登閣制限をせざるを得なかったのでした。
そこで姫路市では、多くの登閣者を効率的に捌くと同時にその安全を考慮して、下り階段を増設することにしたのです。その際、増設するのはあくまで仮設階段で、不要となればすぐに撤去することが前提です。そのため、上り階段とは異なり、建物の軸部に組み込まれておらず、よくみるとその場所に置いてある構造です(写真3)。
《写真3》
設置するために切開した床板や根太は当然保管されています。手摺などに鉄骨が見えているのも、仮設であることを顕示して本来の階段とは区別をつけるためです。
こうして設置された下り階段は、仮設ながらちょうど60年を経ったいまでも撤去されずに使われています。それだけ多くの人たちに姫路城が愛され続けていることの証といえるかもしれません。
- 2.
6月号「大工道具」
姫路城昭和の大修理工事 (以下、大修理)では、建物の解体工事中にいろいろな発見がありました。例えば、天守台石垣の内部から羽柴秀吉が建てた天守の礎石や古い天守台石垣の一部が出土しました。江戸時代の文献には羽柴秀吉が姫路城に三重天守を築いたことが記されていますが、天守の規模はともかく、この発見で秀吉が天守を築いたことが裏付けられたのです。この発見は、とくに天守にかかわることなので、メディアでも採り上げられ、広く知られるようになりました。
《写真1》
もちろん大修理での発見は、衆目を集めるものばかりではありません。もっと地味な発見もありました。その一例が大工道具です (写真1)。建物が解体される過程で、屋根裏や長押裏など目につきにくい場所に大工道具が置かれているのが見つかりました。築城時の道具となれば話題性は十分あるのですが、埋蔵文化財のように地中にパッキングされて残存していたものではないので、製作年代はもとより、それが使用されてその場所に置かれた時期を特定することは困難です。ところが、大修理で見つかった大工道具のうち、台鉋については、加藤得二氏が池田輝政の築城時のものだと指摘しているのです (写真2)。
《写真2》
大工道具は、それぞれの大工が自分の好みや使い勝手を考慮して製作する、オリジナリティの高いものです。台鉋は部材の表面を削って平らにするための道具で、使っているうちに刃は摩耗し、台はすり減り、そして使えるまで使い倒します。つまり、消耗品なのです。そのため、儀式用のものを除けば現物が残ることはほとんどなく、形態から時代を判断することは難しいのです。
ところが、幸運にも大坂城跡の発掘調査で台鉋が出土したのです。それも天正末期 (1580~90年代)頃の地層から出土しているので、豊臣大坂城の築城期と重なる、戦国時代末期の台鉋が見つかったのです。これと姫路城の台鉋を比較すると、大きさや形状、そして2枚刃であることが似ていて、加藤得二氏の指摘を裏付ける可能性も出てきました。
その一方で大坂城と姫路城の台鉋では明らかに異なる部分もあるので、近似点だけに注目して、時代の近さを論じるには慎重でなくてはなりません。それでも、城郭の建築に使われた大工道具が残っていることは、道具が消耗品なだけに間違いなく貴重な例と言えるでしょう。
《写真3》
大修理で発見された台鉋などの大工道具は、その一部が兵庫県立歴史博物館の1階で展示されています (写真3)。1階は無料見学エリアなので、興味のある人はぜひ見学してください。
- 3.
7月号「天守の防煙」
法隆寺金堂壁画が焼失したのは、昭和24年1月26日でした。その惨事をきっかけに、毎年1月26日が文化財防火デーとなりました。姫路城でもこの日には消防訓練を行います。勿論、煙炎の探知機、放水銃、消火栓、スプリンクラー、監視カメラなどの防災設備を更新し、日頃から細心の注意を払っています。
それでも金閣寺のように放火されれば、姫路城も木造なので手の施しようがありません。とくに歴史的建造物である場合、防災設備を重装備にすると建物の歴史的価値を損なう恐れがあるので、その能力も限りがあるものになるのでなおさらです。そうした状況でも、開城時間に火災が発生すれば、城内にいる多くの観覧者の人命を守らねばならないという難題にも直面しています。
そこで、火災発生時の観覧者の動きや滞留、そして建物内での煙炎の流れや広がり方、それを基にした避難誘導をシュミレーションしておくことが、難題解決の一助になるだろうと考え、観覧者の集中する天守について調査をしたことがあります。調査は天守の1/25で実験用模型を作り、その中で灯油や発煙片、電熱器を火源に使って各所で発火させ、データを取りました。その調査ではまず、垂(た)れ壁(かべ)が煙の流動を抑制することが再確認されました。垂れ壁とは鴨居(かもい)の上にある小壁で、入側廊(いりがわろう)と内室をわける間仕切り装置の一種です(写真1)。
《写真1》
高温の煙は上昇して天井にそって流動するので、梁や桁から垂直に下がる壁によって流れが阻害されることが確認できました。こうした機能をもつ設備は、防煙壁として基準に応じて現代建築には設置が義務付けられています。そして二つは、低層階が火元の場合、階段配置が煙炎の上階への進入を遅らせるのに有効だったことです。現代の高層建築には階段室があります。階段室は、火災発生時に煙や炎の通り道になるので、現代では各階の階段開口部に防火扉を設けるようにしています。
《図1》
《図2》
天守も高層建築ですが、階段室はありません。それでも図1の1階平面を見ると、階段は互いに入側廊の離れた位置に開口していて、地階で火災が発生したとしても、そこから2階へ煙炎が直に上昇しない配置になっています。2階は図2のように、1階と異なり階段口は近接していますが、点線部分の板戸を閉じれば遮煙効果が得られます。また、1・2階とも大きな窓を開放すれば排煙もでき、建物内での煙の流動は抑えられると想定されます。
《写真2》
こうしてみると、階段口に付属する引戸や蓋(写真2)は敵の侵入を防ぐための仕掛けと一般的に説明されてきましたが、防火扉の機能も期待されていたのではないでしょうか。城にとって、敵は人間だけとは限らないのですから。
- 4.
8月号「清水門の井戸屋形」
姫路城にある建物はすべて江戸時代から残っているものだと思っている人がほとんどではないでしょうか。実は、建物のいくつかは昭和以降に復元されたものもあるのです。今回は復元された建物のうち、井戸屋形を紹介します。
《写真1》シロトピア公園からみた天守
姫路城中曲輪の北西隅に清水門がありました。姫路城ループバスに乗り、姫山樹林の北側を廻わり (写真1)、清水門・文学館入口のバス停で降りると、すぐ目の前に城門跡の石垣と通称「三角池」があります。
《写真2》三角池と清水門跡
その三角池のすぐ東に隣接して井戸屋形が建っています (写真2)。これは井戸に掛けられた上屋で、その下には井戸がありました。その井戸は「鷺の清水」と呼ばれ、清水門の由来となりました。そもそもこの井戸に上屋が掛けられた経緯については、次のような逸話がのこっています。姫路城主が本多政朝だった頃、彼と京の町人が茶の湯の話をしていると、使う水の優劣に話が及び、姫路と京の水で競うことになりました。町人自慢の柳の清水を運ばせて、鷺の清水と双方の水で茶を点てさせ、招いた茶人に評価させたのです。結果、優劣付け難いと評価され、京の名水にも劣らないことを政朝が喜んで、井戸に上屋を掛けて「鷺の井」と名付けたというのです。この由来が史実かどうかは別にして、姫路城下町は市川が形成する扇状地上に立地するため、井戸を掘れば水を得やすい土地であることは間違いありません。なかでも鷺の清水は良い水が豊富に湧いていたのでしょう。山野井町が清水門の西に隣接するのも、この一帯が地下水に恵まれた土地であることを示しています。
《図1》「大工幾蔵図」(姫路市立城内図書館蔵)
図1は19世紀中ごろの清水門の図で、鷺の清水の井戸屋形も描かれています。現在は外門と内門、一部石垣が消失しているので枡形は残っていませんが、井戸屋形は枡形の中にありました。復元は、発掘調査で出土した遺構の平面規模をベースに、この図を参考に建物を建てました。
《写真3》井戸屋形 (北から)
《写真4》井戸屋形 (西から)
ただ、この図だけでは妻と棟の方向しかわからないので、詳細は姫路城内に残っている井郭櫓を参考にしました (写真3・4)。明治維新後、清水門も撤去され井戸屋形も失われましたが、姫路城三の丸跡に駐屯する陸軍兵士の生活用水の水源地として鷺の清水が利用されることになりました。天守西方の乾曲輪に設けられた配水池まで水を汲み上げ、そこから三の丸跡の兵舎に給水したのです。そして終戦で陸軍がなくなると、今度は姫路市民の上水道の水源地となり、昭和50年代まで利用されたのでした。清水門の井戸屋形は、姫路城の建物の中ではあまり目立つことがありませんが、近代の姫路の町を支えた貴重な遺構でもあるのです。
この近くにある姫路文学館には、姫路城が出来るまでの歴史を説明する常設展示もありますので、是非足を伸ばしてみてください。
- 5.
9月号「とノ一門と搦手」
姫路城内には、管理上の問題などから通常の公開が難しい建物や曲輪があります。姫路市ではこうした場所の特別公開を期間限定で実施していて、今年度は9月中にとノ一門からとノ四門までのルートを特別に公開しています※。
《写真1》搦手道ととノ四門 (島内治彦氏撮影)
このルートは姫路城の搦手 (からめて)にあたります。搦手とは、城の正面である大手に対して城の裏 (背後)を意味し、いわば城の裏口になります。それでも戦時となれば、裏口であろうと敵の攻撃は想定されるので、防御も不可欠です。例えば、とノ一門から四門の間の搦手道は、姫山の東斜面に敷設されています。東斜面は大手側の南側に比べて急傾面になるので、搦手道は蛇行しています (写真1)。その途中にとノ二門、とノ三門を設け、計4つの城門で搦手道の備えとしていました。
《写真2》長壁神社跡
平時は、とノ二門の横にあった長壁神社 (写真2)への参詣道でもあり、内曲輪にあるほかの城道に比べて特別な性格をもっていました。
《写真3》 とノ一門と二門の枡形 (島内治彦氏撮影)
搦手道の4門のうち、とノ三門だけ撤去されましたが、ほかの3門は現存しています。なかでも、とノ一門と二門は枡形虎口を構成しており、枡形を囲う石垣と土塀も残っていて、小規模ながらも姫路城では唯一完全形で残る枡形虎口となっています (写真3)。とノ四門の内側は、眼前に天守が天守台石垣とともに聳えています。でもよく周囲を眺めると、正面には天守1階とイの渡櫓、東小天守が連なり、右手にちノ門とそれに続く東方土塀、左手にはへノ門と折廻櫓が接続し、それらにぐるりと包囲された閉鎖的な空間であることに気づきます。これも一つの枡形の空間と評価するならば、とノ一門を中央にして枡形虎口が二重に設けられていたことになり、同じように二重枡形であった大手門に匹敵することになるでしょう。
《写真4》とノ一門の突上戸
ところで、4つの城門のうち、とノ一門は現存する姫路城の櫓門では唯一白漆喰を塗っていません。また、部材や構造に古いところがあるため (写真4)、置塩城から移築したという説もあり、それが、もともと白漆喰が塗られていなかった理由と考える向きもありますが、残念ながら断定はできません。
《写真5》とノ一門の番所遺構 (撤去前)
その一方で、江戸時代末期には門内に番所が増設されたことがわかっています (写真5)。その番所は「昭和の大修理工事」の際に撤去されましたが、わざわざ番所を増設、言い換えれば、防御性を高めなければならなかった理由とは何だったのか、姫路城にはまだまだわからないことがたくさんあります。
※特別公開は、11月16日~24日と令和7年2月15日~3月2日にも実施する予定です。
- 6.
10月号「大手・搦手バイパス通路」
9月の特別公開では、とノ一門からとノ四門に至る搦手道を見学していただきました。概ね好評だったようですが、残念だったのは安全管理上の問題で見学はとノ一門から四門への一方通行で、再入場もできなかったこと。アンチ・バリアフリーを体現する城郭では、効率よく楽に巡るのはそもそも簡単ではないのです。とはいうものの、観光施設として一般公開をする以上、観覧者への便宜を図ることは不可欠です。効率的な見学通路の設定もその一つでしょう。
さて、姫路城の一般公開は大正元年 (1912)に始まりました。明治の修理を契機に姫路市の働きかけが奏功し、軍用地以外の区域 (姫山や北勢隠など)と建造物が市へ無償で貸下げられることになり、市は城の一般公開に踏み切ったのでした。ただ、公開当初、三の丸跡には歩兵第十連隊が駐屯していたため、大手門から菱の門へは一般の立ち入りができず、観覧者は搦手から入城せざるをえませんでした。ですから、公開当初は観覧者にとってとノ四門がメインゲートであり、まさに“大手”なのでした。
ところが第一次世界大戦後、軍縮で歩兵第十連隊が岡山に移駐しました。そのため空閑地となった三の丸跡も陸軍から大蔵省を経て文部省へ移管となり、そして市が管理することになりました。こうなると、姫路駅方面から観覧者の来城を想定すれば、本来の大手門から彼らを誘導するほうが利便性は高くなるので、メインゲートをとノ四門から菱の門に変更することになりました。それが現在でも入城口となっているのです。
前置きが長くなりましたが、そこで今回紹介するのは新旧2つのメインゲートを結ぶ“バイパス通路”です。とノ四門周辺では、一般公開に合わせて姫山公園を整備しました。
《写真1》とノ四門前の姫山公園
《写真2》北勢隠曲輪の姫山公園
動物園やトイレ、休憩施設の設置や桜の植樹などを行い (写真1)、喜斎門から城の北側に位置する北勢隠曲輪にもおよぶ広さの公園となりました (写真2)。ところが、メインゲートが菱の門に移ってしまうと、当然、姫山公園への来客減少が予想されます。その対策も兼ねて、昭和9年 (1934)、とノ四門方面(姫山公園)と三の丸跡の往来を容易にするため“バイパス通路”が敷設されたのです。
《図1》
その通路敷として、本来は内堀が姫山の東側斜面に切込んだ堀留に、その斜面を利用して平坦面を造り出しました (図1)。
《写真3》三の丸跡から見た通路 (昭和40年代)
《写真4》旧路と現行路の分岐点 (昭和40年代)
《写真5》開通記念碑
写真3・4の矢印がその通路です。三の丸側については廃道となった部分もありますが、その傍らには開通記念碑が残っています (写真1の赤枠、写真5)。写真内の※はのちに付け替えられた通路で、今でも人と車が通行しています。現在、姫路市では姫山公園 (北勢隠曲輪跡)の整備を進めているところです。完成すれば、気候の良い時期なら家族でお弁当を広げて楽しむには好適地です。その近辺には美術館や歴史博物館、清水門の井戸屋形もあります。“バイパス通路”は、これらへのアプローチにもなっています。