
- 諸説ありますが一つは、黒い板張りの岡山城を烏城(うじょう)と呼んだのに対比して、白漆喰総塗籠造の姫路城を白鷺城と呼んだという説。また、城の建てられた丘は「姫山」と呼ばれますが、一説に「鷺山」とも呼ばれたところから、という説(これには、本丸を姫山、西の丸を鷺山と呼ぶ説もあります)。また、城が白鷺の飛ぶ姿に見えるためとか、昔からゴイサギが多くすんでいたから、などの説もあります。

- 安土・桃山時代までの多くの城郭は鎧下見板張でした。塗籠造は寝殿造りの塗籠に始まったもので、防火・耐火のために土蔵などを塗籠にしたのです。姫路城も、築城の頃に普及していた火縄銃の射撃によって延焼しないように、白漆喰塗籠造が採用されました。

- 姫路城には内曲輪だけで10万3396トンあまりの石が使われています。これらの大量の石は、主に地元の播磨と備前(岡山県)から集められています。姫路近くの砥堀山、今宿山、別所山などからも堀出されました。これらのうち、大きな石はまずクサビ形に穴をほり、そこに矢を打ち込んで割って採掘されたのです。いわゆる巨石と呼ばれるものは、石の下に修羅や車を敷いて、それに長い綱や鎖をつけ、大勢の人が音頭やお囃子、かけ声をかけあいながら引いて行きました。石にはいろいろな形の銘を刻んだものがありますが、これはその石の採掘や運搬に奉仕した村や団体、指揮者などの符号です。


- 姫路城といえば抜け穴があるとの説が昔から話題にされています。注目されているのはやはり井戸で、中でも二の丸にあるお菊井戸は、帯郭櫓の下の濠まで出るのに距離が短く、天守にも近いため何度も調査されましたが、水抜きで抜け穴ではないようです。その他の場所からも、調査の結果、抜け穴は発見されていません。しかし、濠の中に水面下に隠された堤があり、この堤の上をたどれば、歩いて堀を渡ることが可能だとか、ぬの門の下にあるるの門は、石垣の中に人一人がやっと通れるように折れ曲がり、急な階段をつけた穴門と呼ばれるもので、これをくぐると菱の門への近道になります。このような非常の場合の間道としての工夫は、随所に見られます。

- 姫路城の大天守だけでも7万5千枚以上の瓦が使用されています。特に姫路城は、丸瓦や平瓦、軒先に使われる軒平瓦(唐草瓦)、軒丸瓦(巴瓦)、あぶみ瓦、棟込瓦、のし瓦、菊瓦、鬼瓦、棟飾りの鯱瓦など、実に56種類もの瓦が使用されています。寺院などの場合、軒丸瓦は巴の紋が入ることが多いのですが、城の場合は城主の家紋が入ることになります。姫路城は城主がよく変わったので、その種類も多くなっているのです。歴代城主の家紋は、赤松氏(二ツ引両)、黒田氏(橘)、羽柴氏(桐)、池田氏(揚羽蝶)、本多氏(三ツ葉立ち葵)、榊原氏(源氏車)、奥平姓松平氏(沢瀉)、松平氏(三ツ巴)、酒井氏(剣酸漿)などとなっています。

- 姫路城の塀や櫓の壁、天守にも、丸や三角、四角の穴があけられています。これを狭間といい、ここから鉄砲や矢を放つ仕掛けになっています。丸や三角が鉄砲狭間、長方形が矢を放つための矢狭間で、その数は記録では鉄砲狭間が2,522か所、矢狭間が603か所あったといわれています。現在残っているのは内曲輪のものだけですが、その数は287です。また天守や櫓には狭間に壁と同じ漆喰を縫って蓋をしておき、いざというときに蓋を取って攻撃ができる「隠し狭間」もあります。
また、塀や天守、櫓には多くの石落としもあります。石落としは、石垣を上って来る敵兵に石を投げ、湯を流したり、槍で突いたりできる仕掛けです。


- 姫路城の大きな特徴の一つは、敵を簡単に天守に近づけない迷路のような縄張り(道順)と、敵を攻め込む仕掛けが随所に施されていることです。まず菱の門をくぐると、道が3つに分かれており、真っ直ぐ行くといの門、左は西の丸へ行く上り坂、右手は行き止まりのように見えます。ここで迷っている敵を、正面からは本隊が、西の丸の狭間からは銃が狙い、行き止まりに見えた右手の石垣から兵士が飛び出して、敵を挟み撃ちにし、三国堀へと追い落とします。続いていの門をくぐると、遠回りになるろの門へまっすぐに誘導され、ろの門を抜けると右側の多くの狭間から狙い撃ちできます。そして続くはの門を抜けると、道が天守閣とは逆方向へUターンしてしまいます。そしてにの門は、直角に曲がっていて進みにくく、いざというとき埋めてしまえる埋門です。本丸の入り口になるほの門も埋めることができます。そして本丸に到達しても、すぐに道が分かれへの門、ちの門へと進ませますが、本当は油壁の裏の水の一門が近道です。しかし続く水の二門、水の三門は下り坂で、攻め上がろうとしている敵に、城外へ出てしまうかのような錯角を思わせます。このように、姫路城は攻める敵の状態や心理にも効果的に考え抜かれた仕掛けがたくさんあるのです。

- 姫路城主・榊原政岑は信仰心に厚く、ゆかた祭を始めたことでも知られる心豊かな城主。しかし、日光代参の希望が幕府に聞き入れられなかったことに不満を持ち、酒色におぼれて、吉原通いを始めました。そして「色婦録」にも艶名をうたわれた名妓・高尾を落籍。姫路に連れ帰って、城内西屋敷に住まわせました。これらの行状が、当時倹約を推し進めていた幕府に知れ、政岑は糾弾されます。やがて政岑は20代の若さで隠居を命じられ、榊原家は越後高田へ転封となり、高尾も政岑に従って共に越後高田へと下ることになりました。高田への移動が決まると「さぁ、祭りだ、にぎやかに踊ろう」と最後の命を下し、突然の命に家臣たちが慌てると「衣装などゆかたで結構」と豪語し、ゆかたでの祭りを行いました。これが姫路ゆかたまつりのルーツだといわれています。


- 安永元年(1772年)、19歳の若さで姫路城主となった酒井家の二代目当主・忠以(雅号/宗雅)は、もともと風雅の素養があったところへ松江藩主で茶の湯の石州流不昧を興した松平不昧と親交を持ち、茶の心と美の世界の薫陶を受けたといわれます。その成果は政務より、茶道において殿様芸を抜きんでた境地を示し、さらに陶芸、書画、俳句などの作品を残すまでになり、歴代姫路城主の中でも異才を放っています。またその弟の抱一にも絵の手ほどきをし、抱一は狩野派に学んだ後、師を転々としながら写生画、浮世絵などを試み、尾形光琳に師事して、江戸琳派画家となったのです。

- 20歳で家老となった河合隼之介が42歳の時のこと。この頃(文化5年、1808年)は、財政が逼迫した藩が多く、姫路藩も例外ではありませんでした。隼之介は城主・酒井忠道から、姫路藩の財政建て直しを依頼されました。これまで藩は領民に倹約を説き、それで浮いた分を搾取していましたが、隼之介は政策を逆転し、低利で生活資金を融資したり、米を無利子で貸し付けたり、いざというときのために共有の米を保存する固寧倉を設けるなどしました。隼之介は常に「民貧しき時は君貧しく、民富める時は君富める時なり」と口にし、藩主と領民の一体化した政治を心掛け、木綿の専売システムや新田開発、姫路染めの製造開始などの産業振興を行い、ゆっくりとながらも巨額の負債を返したのです。隼之介は晩年には寸翁と号したため、「寸翁さん」と親しまれ、今も姫路神社の中に寸翁神社が祀られています。

- 廃藩置県により、無用の長物となった各地の城は、保存に巨額の経費がかかるため、次々に廃棄され、売りに出されました。姫路城も例外ではなく競売にかけられ、その結果、市内の神戸清一郎がわずか23円50銭で落札しました。ところが、買い取ったものの取り除きには莫大な費用がかかるため、権利を放棄したのです。しかし昭和2年に清一郎の子・清吉が「姫路城は父が買ったのだから、所有権は神戸家の継承者たる自分にある」と大蔵大臣を相手に訴訟問題を起こし、当時の新聞のトップニュースとなりました。しかし、あまりにも年数がたち過ぎていて事情がはっきりせず、証拠の蒐集も困難で、弁護士が引き受けなかったため、そのままになってしまたそうです。ちなみにその後の調査で、姫路城は買い取りが決まった直後に、買い取りそのものが取り消しになっていたそうです。







