姫山に築かれた砦
元弘3年(1333年)、赤松則村(円心)が鎌倉幕府倒幕を狙う護良親王の命に応えて決起し、1200騎の兵を率いて姫山の山上にあった称名寺を仮の砦として定め、一族の小寺頼季に守らせました。その後、正平元年(1346年)、円心の次男・貞範が称名寺を移転してその跡地に400m四方の城を築きました。姫山の城と呼ばれたこの城は、小さな居館の周囲に堀や柵を巡らせ、木戸を設けただけのものでしたが、これをもって初代姫路城主は赤松貞範とされるのが通説となっています。

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黒田重隆による姫路城築城
姫路黒田氏の祖といわれる重隆が備前福岡から播磨入りしたのは大永5年(1525年)とされています。はじめ龍野城主・赤松政秀に仕えますがその5年後、御着城の小寺則職に仕え、有力家臣として召し抱えられると、姫路城を任されることになりました。重隆は息子・職隆とともに主君の許しを得て天文24年(1555年)~永禄4年(1561年)の間に、御着城の出城として「新城」を建設しました。これが姫路城建築史に記される本格的な姫路城郭の誕生だといわれます。

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秀吉の建てた三層の城
天正5年(1577年)、織田信長の中国征伐の命を受けて、羽柴秀吉が播磨へ乗り込んできました。 当時姫路城の城主だった黒田孝高は秀吉を迎え入れて、秀吉の播磨平定に力を貸します。しかしやがて毛利方につく武将が次々と現れ、秀吉は苦戦を強いられながら御着城、英賀城、三木城を攻めます。中でも三木城の別所長治は徹底した抵抗を見せ、秀吉は世にいう「三木の干殺し」で2年をかけてやっと落城させます。 ようやく播磨平定を成した秀吉に、孝高はなんと中国征伐の拠城として姫路城を献上したのです。早速秀吉は城の改築に取りかかり、地下に穴蔵のある外観三層、内部四階 建ての本格的な天守閣を持つ堂々とした城をわずか1年で完成させ、後には太閤丸と呼ばれます。秀吉はさらに、移住してくる者の役を免除したり、龍野町に楽市を設けたりして、城下町づくり にも力を入れました。

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池田輝政が築いた大城郭
池田輝政は、織田信長の乳母を祖母に持ち、早くから秀吉の養子となる約束が交わされ(父と兄を失ったため家督を継ぎ、実現はしません)、家康の次女・督姫を妻にするなど、天下人の三人に深い関わりを持つ数奇な運命の人でした。しかし天下分け目の関ヶ原の合戦からわずか1ヶ月後、徳川方の武将として活躍した池田輝政は、大阪城を牽制し、西国の武将ににらみをきかせる重要な役割を持って姫路に入ってきます。
姫路入りした輝政は、早速、新しい城づくりを開始。実質的には百万石ともいわれ、西国将軍とも呼ばれた強力な力をバックに、9年の歳月と推定2430万人もの人々を動員して、慶長14年(1609年)、連立式の天守を持つ白亜の名城を完成させたのです。

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本多忠政による姫路城の完成
輝政没後の元和三年(1617年)、本多忠政が城主として姫路へやって来ます。 忠政は西の守りを固めるために、姫山の西の鷺山に西の丸を作るなど、姫路城を完成させていきます。そして太平の世となるにつれ、居住性を伴った「政治拠点」としての城づくりを行います。 三の丸に自分が住む館を建て、息子・忠刻と千姫のために武蔵野御殿と呼ばれる館を建て、西の丸には千姫の侍女が住む長局や千姫と忠刻がくつろぐ化粧櫓も整えました。さらに武蔵野御殿の北側に向御屋敷、内堀の外には西御屋敷、東御屋敷も建てました。こうして天下の名城・姫路城が完成したのです。

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江戸時代の保存工事
これだけの大城郭となった姫路城は、江戸時代にも何度か修理や補強工事が行われています。 例えば、大天守を支える東西の太い心柱は、築城から50年近く経った明暦2年(1656年)に早くも地階部分が腐りかけ、腐った部分をくり抜いて新しい木材を入れて補強されています。また、多くの櫓や建物に保存の手が入れられた形跡があります。 寛保3年(1743年)には、荷重に耐えきれず、ゆがみの大きくなる大天守1、2階に筋交いと支柱を加えて補強を行い、続く寛延2年(1749年)の大洪水や宝暦9年(1759年)、安永2年(1773年)の洪水の後は大がかりな工事が行われた記録があります。また屋根の補修は絶え間なく行われており、文化5年(1808年)から幕末の文久元年(1861年)までの間に計8回の補修工事が行われた記録があります。 その他にも台風や大雨の後は、石垣や門、橋などが崩れたり流されたりすることもあり、その度に幕府の許しを得て修理を行ったようです。

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姫路城開城
嘉永6年(1853年)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に入港し、いよいよ幕末の時を迎えます。 時の姫路城主・酒井忠宝は、軍隊が江戸に入ると江戸を守るために兵士2000人を率いて警備につき、次々と精鋭部隊を呼びよせます。次の城主・忠顕は、異国船の来襲に備えて江戸鉄砲洲・佃島の警備につきます。やがて勤王か佐幕かで国が二分されると迷うことなく佐幕派となり、鳥羽伏見の戦いでは旧幕軍に加わって討幕派と戦います。しかしこの鳥羽伏見の戦いの後、維新政府は旧幕側についた姫路城へ追討の兵を送り込み、1500人の兵で城は囲まれてしまいます。城主は江戸とあって、重臣たちは涙をのんで開城を決意しました。

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明治の保存工事と中村重遠大佐
時代が明治に入ると、廃藩置県が行われ、姫路城だけでなく全国の城は無用のものとなってしまいました。 明治6年(1873年)、明治新政府は全国各地の城を存城と廃城にに分け、幸いにも姫路城は存城となりますが、当時の存城は建築物としての城を残すのではなく、その敷地を陸軍の兵舎や訓練場として利用するというもので、姫路城でも三の丸の建物は次々と取り壊され、天守閣や塀、石垣なども修理されるわけもなく荒れ果ててしまいました。この状況の中で、当時陸軍省第四局長代理だった中村重遠大佐は、天下の名城としての姫路城を守るために尽力し、陸軍卿・山県有朋に働きかけて明治12年(1879年)、姫路城の保存が決定し、陸軍省の費用で修理が行われることになりました。しかし新政府は財政的に苦しい状況で、姫路城の修理にも翌年一時金が支払われ、大天守地階の補強のための支柱交換が行われたこと以外、記録もありません。このような状況を心配した市民により明治41年(1908年)「白鷺城保存期成同盟会」が結成され、国会へのねばり強い市民運動を繰り返して、明治43年(1910年)から本格的な保存工事が行われることになったのです。

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昭和の大修理(戦前・戦後)
昭和3年(1928)年、姫路城は史蹟名勝天延記念物保存法によって史跡に指定され、さらに昭和6年(1931年)、国宝保存法により大天守をはじめとする82棟が国宝に指定されました。これを受けて昭和の大修理が開始されます。昭和9年(1934年)、西の丸の「たの渡櫓」から「をの櫓」にかけての石垣が大雨によって崩れ落ちたため、国の直営工事として西の丸の解体修理が始められ、昭和13年(1938年)に完了しました。続いて本丸北腰曲輪のい~への櫓や渡櫓、門、土塀の工事が始まりますが、昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まったために昭和18年(1943年)に中断されました。
戦後、昭和25年(1950年)から修理工事は再開され、この時の第一次6カ年計画では、菱の門とその周辺の石垣・土塀、帯の櫓などの櫓8棟、門7棟、土塀13カ所、石垣3カ所で、当時の1億円の修理費がかけられました。
さらにその後、昭和31年(1956年)からは第二次8カ年計画で解体修理工事が始まることになりました。 一般によくいわれている「昭和の大修理」はこのことです。この時の工事では、大天守の傾きを整えるために、地盤を岩盤まで掘りさげてコンクリートの基盤を据え付け、大天守の組み立てと同時に東西の心柱の取り替えを行ったほか、3つの小天守、付属する渡櫓など本丸の中心部が全て解体修理されました。昭和34年(1959年)には立柱式が行われ、翌年に組み立て工事が完了。続いて白漆喰の壁塗りや瓦葺きなどの細部の工事が行われ、ついに昭和39年(1964年)、8年に及ぶ大工事が完了したのです。 この「昭和の大修理」の工事にかかわった人の数は延べ25万人、費用は総額で10億円といわれています。

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国宝から世界遺産へ
昭和6年(1931年)国宝保存法によって姫路城は国宝に指定されていますが戦後の昭和26年(1951年)、姫路城は改めて新文化財保護法により、城郭としては第一号の「新国宝」の指定を受けました。その後、平成4年(1992年)、文化庁から「日本が世界遺産条約を批准する。日本初の世界文化遺産として姫路城が候補に挙がっており、推薦したい」という連絡が入ります。世界遺産条約は、1972年、パリで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)の総会で採択されたもので、世界の貴重な文化財や自然環境を「世界遺産」として登録し、国家の枠を超えて積極的に保護しようという目的で制定された国際条約です。
姫路城は、日本を代表する最も完成された城郭建築であり、大規模な木造建築であること、400年の歴史の中で一度も戦火に遭うことなく、内曲輪の城郭建築が建築当初のままほぼ完全に残されていること、そして多くの人々の努力と熱意により、保存、整備が行き届いていることなどにより、世界文化遺産の候補に挙がったのです。
そして平成5年(1993年)12月、姫路城は法隆寺と共に世界文化遺産に登録されました。同時に屋久島、白神山地は世界自然遺産に登録され、この4カ所が日本初の世界遺産となっています。

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姫路城年表
1333年(元弘3年)
赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築く。
1346年(正平元年)
赤松則範、姫山に本格的な城を築く。
1441年(嘉吉元年)
嘉良の乱。赤松満祐父子、六代将軍足利義教を謀殺し、自害。
山名持豊、姫路城を治める。
1467年(応仁元年)
応仁の乱。赤松正則、姫路城を陥落し、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。
後に一族の小寺氏、その重臣・黒田氏が城をあずかる。
1580年(天正8年)
羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田考高、城を秀吉に献上。
秀吉、3層の天守閣を築く。
翌年完成。
1585年(天正13年)
木下家定、姫路城主となり16年間治める。
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦の後、池田輝政が姫路城主に。
1601年(慶長6年)
池田輝政、城の大改築を始める。
9年後完成。
1617年(元和3年)
池田光政、鳥取城へ移る。
本多忠政、姫路城主に。
三の丸、西の丸、そのほかを増築。
1639年(寛永16年)
松平忠明、姫路城主となる。
1649年(慶安2年)
榊原忠次、姫路城主に。
その後、松平、本多、榊原各氏が城主に。
1749年(寛延絵2年)
酒井忠恭、前橋から姫路へ。
明治維新まで酒井氏が城を治める。
1869年(明治2年)
酒井忠邦、版籍を奉還し、姫路城は国有に。
1931年(昭和6年)
姫路城天守閣、国宝に指定される。
1951年(昭和26年)
新国宝に指定される。
1956年(昭和31年)
天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。
1964年(昭和39年)
天守閣群の全工事終了。
1993年(昭和5年)
ユネスコの世界文化遺産に指定
 

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